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1940-06-09わが親父のこと。 このエントリーを含むブックマーク

よくよく考えれば、父のことはブログでも、断片的にしか触れてこなかった気がする。『厳父』という言葉はすでに死語になって久しいが、俺が小さい頃の父はまさしくそういうイメージだった。


俺の父は昭和15年(1940年)の初夏、鹿児島県の東半分・大隅半島で産まれた。ともに何人かきょうだいが居たはずだが、俺は聞きそびれた。なお姉(私から見れば伯母)は2016年も存命である。父の父は軍医だったが、南方戦線への帯同の際に現地でマラリアに倒れた。ゆえに子供時代の父(や伯母)は、高校教師である母の手のみで育てられた。しかしその母も、我が父が受験生の頃に病で没し、以後の父達きょうだいは親戚を『たらい回し』にされたようである

ただ、本家などを合わせた親戚一同が鹿児島に居た事で高校学費は肩代り・そして大学学費は「相続した山林のスギの搬出・売却」や奨学金でどうにか賄えた(※当時の国立大学学費は、現在の水準より遥かに安かった)と聞く。なお、父の母が亡くなるまでは、父の家には『下男』(げなん・住み込み下働き人員)が居たらしい。


ちなみに父は、俺たちきょうだいが幼い頃には、自らの出身高校(進学校)や大学をやたらと引き合いに出し「だから、お前らもガンバるんや!」と、叱咤激励するのが常であった。もっとも、俺たちきょうだいにとっては、そういうハッパは単にウザい事この上無かった記憶しか無い。

くわえて、生来泣き虫である俺は「相手に怒鳴られると固まる」クセがあり、これはしばしば「相手を叱責する」際の父を激昂させる引き金となった。それは結果として、父から俺への鉄拳制裁がよく発生する要因でもあった。こういった体験が、体罰体育会系勢力の無遠慮やゴリ押し行動に対する、俺の不信感の源になっているように思う。


さて、大学卒業した後の父は、昭和30年代には日本花形産業ひとつであった繊維産業企業の、愛知にある工場に着任する。その時、山陰から集団就職組に属していた私の母と出会い、やがて家庭を持つに至った。時に、父30歳・母25歳の頃のことである

その後の父は、富山大阪本社富山大阪姫路インドネシア高知姫路富山姫路と転勤が相次いだ。ただその際、海外赴任別にして、昭和も末期になると繊維産業は全体的に斜陽となり、『工場整理』・つまり本来意味での)リストラのために赴任するという、当初の当人の意気込みとはいささか異なる任務が続く事となる。特に昭和60(1985)年から丸3年のインドネシア・スラバヤへの技術指導員として赴任した際は、それこそ「全く現地語を知らない」状況でのもので、まして当時は現在のようにインターネットがあるわけでもなく、現地の事を調べるには大変な苦労があったであろう事は想像に難くない。なおこの間に、現在実家である分譲マンションの一室を新築で3000万ほどのローンで購入しており(※バブル期には資産価値1億円を超えたとも言われる)、きょうだいらの進学費も含めて相当な額の経済的負担をこなしていた事は、密かに尊敬はしている。

また、俺の浪人時代(1989年平成元年)に家族全員をバリ島旅行で招いてくれた(※バリとスラバヤは北海道沖縄間より遥かに遠い)ことは、今でも家族のよき思い出である

そして55歳頃、かつての定年に相当する年齢が近づくと、会社側の計らいによる『出向』という名の片道切符で、梅田運送会社の配車係をしばらく勤めたのち、平成16年(2004年・64歳)に父は悠々自適の身となった。


… … … … … … … … … … … … … … … …


と、これにてハッピーリタイヤとなるハズだったのが、今から思えば2009年前後から、それまでは好きだった俳句俳画盆栽栽培などの園芸、版画や囲碁といった趣味への興味をしだいに失い、あわせて辻褄の合わない言動が徐々に目立ち始めるようになる。認知症発症し始めたのだ。

ただ、思い当たる要因は幾つもあった。60代までの父は、セブンスターを愛飲するかなりのヘビースモーカー(60代の数年間はマイルドセブンに切替え)であり、かつビール好きであった。70代に入り、肺活量が衰えてからたばこは『吸えなく』なったものの、それでもしばらくのうちは酒量は衰えず、一回の晩酌で500ml+350mlを飲む事が珍しくなかった。これらが相乗効果となり、しだいに脳の微細な血管の硬化や血栓形成を招き、側頭葉(言葉を聞いて解釈理解する部位)へのダメージから前頭側頭型認知症』(典型的な症状)へ至ったのではないか、と俺と母は推測している。

ちなみにこの時点で、俺を含めたきょうだい3人は全員、実家である大阪を離れている。また、母は現在に至るまで外勤め続きである。そのため、父の認知症発症に気づくのが、やや遅れた面は否めない。

父の発症確信する決定的な出来事が起きたのは、2011年春に発生した東日本大震災を伝えるテレビ画面を父母が見ていた時の事であった(らしい)。画面には悲惨光景が写し出され、普通感性の人であれば目を覆ったり・または言葉を失うようなところで、母曰く「まるで、お笑い芸人が転んだりした時の客席のような反応」を父は示したという。

さすがの母もこれにはギョッとして、ムリヤリに病院へ連れていったところ『長谷川検査』(→参照)や『時計描画テスト』(→参照)(※いずれも、認知症の症状をチェックするための有名な検査)を、父はクリアできなかった。

「望んだ事は最悪のタイミングでやってくる」とはよく言ったもので、2年後には父(そして母)にとっては、長らく望んでいた初孫ができた。が、残念ながら今の父には、その小さい子供写真自分の孫であり関東に住んでいる、という事をどうも理解できていないフシがある。


ところで、マトモな頃の父は格言が好きであった。いわく、「馬を泉に連れてはいけるが、水を飲むかどうかは馬次第だ」、「他人を糺すならまず、我が身を律せよ」・「下手な考え休むに似たり」「ひとに迷惑を掛けない大人になれ」・そして「人の行く 裏に道あり 花の山」などは、「門前小僧、習わぬお経を詠む」ではないが繰り返し聞かされたので覚えてしまった。

だがそれが、現在では『認知症現在の父自身にことごとく当てはまっている』あたりが、つくづく壮大なブーメランというか、あまりにも皮肉しか言いようがないのが泣ける。


追記:ついに着替えすらマトモに出来なくなり、半年近くが経つ父の世話をする母が、このたび久々に盛大にブチ切れた。

アンタ、昔アタシによく言ってたよね?「そんなカネにならんような話を、ウダウダしてくるな」って。

もうボケた、今のアンタに言ったって分からないだろうけど、そんな「カネにならんような話」を聞いてもないのに、ウダウダと話しかけ続けてくるのはいったい、どこの誰なのよ!

かつての自らの言動が、ブーメランとなって返ってきて人望を落としているのは、俺に対してだけでは無かったようだった。

(2016/04/30記)